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Channel: ローマのイクラ
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イタリアの第二次世界大戦参戦について

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1939年5月22日の、いわゆる鋼鉄同盟の締結により、イタリアは徐々にドイツの勢力圏に取り込まれていくように運命づけられた。ヒトラーがいかにムッソリーニを崇拝し、ムッソリーニがいかにヒトラーを毛嫌いし無視したがっていようと、二国間の軍事力の差は明らかであった。とはいえ1939年の段階では、イタリアは英仏を当てにできたとともに、英仏の軍事力は実際にはドイツを遥かに上回っていた。例えば、ドイツが同年8月に独ソ不可侵条約を結び、9月にポーランドに侵攻した際に、英仏がイタリアに譲歩して(絵北アフリカの領土割譲、エチオピア承認、チュニジアでのイタリア勢力の承認、ジブラルタル、マルタ、スエズに関する取り決め)即座にドイツに侵攻していればドイツ軍は太刀打ちできなかったろうと、ドイツの将軍たちも認めている。

ドイツは1939年9月にポーランドを占領した後、しばらくの間動かなかった。英仏両国はドイツに宣戦布告したものの実際には戦闘は行われず、奇妙な状態が半年以上も続くことになる。そして、1940年5月10日、ドイツ軍は突如、中立国であるオランダに侵攻する。この段階でヒトラーはイタリアの参戦を望んでいたが、ムッソリーニは中立を保った。52師団しかないドイツ軍が120個師団を擁する連合国に攻め込むことは自殺行為だとヒトラー配下の将軍たちも訴えていたようであるが、ドイツの機甲師団はマジノ戦を迂回し、アルデンヌの森を越えてフランスに侵入したため、裏をかかれた連合軍は瞬く間に壊滅する。予想外にうまくいったドイツの作戦を見て、イタリアは土壇場で対仏参戦を決めるという、最悪の行動をとることになる。ムッソリー二の参戦の動機は強欲だけでなく恐怖も影響していたと、ニコラス・ファレル『ムッソリーニ』(Mussolini, Nicholas Farrell, Weidennfeld & Nicolson, London, 2003, 柴野均訳、白水社、2011年)では述べられている。ムッソリーニはチャーノに向かって、中立でとどまることができると信じているイタリア人はいるのだろうか?どうやって中立を保つか教えてもらいたい、イタリアが後退できないのは明らかであり、鋼鉄と呼ばれる条約に調印したことが、ドイツに侵略される際には最後の頼みの綱になるだろう、と言っていたそうだ(p152)。


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